人生の曲がり角

俗に「お肌の曲がり角」という。思えば妙に的を射た表現で、よくよく吟味すれば生身の肉とその臭気さえ感ぜられてきそうである。

人は寝ていても刻々と老いさらばえていくわけだが、それと実感するのは至難である。何よりいちいち感じ入っていたら身が持たない。だからいくらかまとまった歳月を経て、ようやく例の「曲がり角」につき当たる。

その時、ほとんどすべての人はキューブラー・ロスの死の受容に至る5段階モデルとうり二つの道筋を辿る。まず、こんなはずではないと「否認」し、次になぜ歳を取らなければいけないのかと「怒り」、第3にサプリメントや化粧品、あるいは生活スタイルの改善を試みたりして老化を食い止めようと「取引」をし、 第4に結局はおよそ抗えるものではないのだという無力感から「抑うつ」に陥り、最後の最後に人間誰しも歳をとるものだと観念、つまり「受容」する。

まあ、あと何年何カ月と余命宣告をされないまでも、歳を重ねることは緩慢な死に他ならないわけだから、当然と言えば当然である。しかし緩慢なだけに、自然そのひとつひとつの段階は間延びもすれば、行きつ戻りつもする。

思うに最近の私は、第3の「取引」と第4の「抑うつ」のあたりを行き来していて、昨日などは確かに「抑うつ」であった。ぼうっとひとりで晩酌していると、なんともいえない気持ちに覆われる。

虚しさ、もの悲しさ、不安、さびしさ――そのような言葉に当てはめられなくもないが、どうも以前とは違う。即ち、若い頃とは違うのである。

年相応に思考や感情が深まったとでも言えば聞こえはいいが、実際のところは単に自身の「可能性」と「欲望(諸欲求)」と「年齢(人生の残時間)」が三つ巴になってせめぎ合っているだけである。

むろん、私には無限の可能性があり、まだまだこれからなんでもできると言う。いくらでも動き回って、後先考えずになんでもやってやれと思う。しかしそれはあくまでも表面的な口先であって、胸の奥底では、どうにもこうにも(もういい歳だ)とか(平穏な生活を志向するべきではないか)などという弱気な自分が着実に育っているのである。

しかしそのような自分に屈することは、私にとってほとんど老境に入ることと同義だと考える。企業と同じで、現状維持は衰退とイコールだ。挑戦することをやめたらそれまでだ。欲望を失ったらおしまいだ。私は私が閉じてゆくことを恐れる。しかしその一方、己の可能性を過大評価し無闇やたらと信じることもまた同様に恐れている。

胸の内は二つに裂けている。正しいような気もするし、全然間違っているような気もする。その答えがいつ出るのか、また何をもって正解として何をもって誤りとするのかさえも知らず、わからないくせに、ただ漠然とした迷いがある。

たぶん迷っているうちに、放っておいても曲がり角がやってくる。そういうものだとは思うが、それでも迷うものなのだろうとも思う。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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