人の性格は変わらない

幼稚園の基礎を作ったドイツの教育学者フレーベルによると、5才の時にはすでにその人ができているという。

あるいは十八、十九の頃なら、人はもっともっと変わるはずだと鼻で笑ったろうが、今は素直に首肯できる。

私は生来やたらと泣く子であった。何につけても泣きわめき、周囲を辟易させていた。今でもそのことを言われて苦笑うこともたびたびである。それが今では立派になったものだとひとり勝手に思っていたが、いやいやまったく変わってなどいないのだ。

つい先日も、父親と呑んでいるとき、何だかよくわからないが感極まって泣いた。先週の日曜日は、近くの公園に行って子供たちを眺めていると込み上げてくるものがあって、白昼しとしと涙を流した。二、三日前には友人と馬鹿話をしている最中にどうしてまた泣けた。昨夜は眠る前に本を読んでいて、ぐじゅぐじゅになるまで泣き濡れて眠った。

そう、子供の頃と泣く理由やタイミングが変わっただけで、涙もろいというか、単にすぐ泣くところは、信じられないほど何も変わっていないのである。別に泣くのは嫌いではないが、これはさすがに一般成人男性として泣き過ぎではないだろうか。

あるいは、歳を取ると涙もろくなるということかもしれない。しかし、まだそこまでの歳ではない気がする。まさか涙が目尻のしわを伝って横へ流れることもなく、ちゃんと垂直に落ちてくれるのである。

結局、どうしようもなく私は私なのだ。三つ子の魂でもフレーベルの言う5才でもどちらでもいいが、とにかくは私は相当に幼い時分から私になっていたのである。

そう考えると、子供は子供でない。中世の子供観がそうであったように、『子供は小さな大人』なのである。だとすれば、自ずとその接し方が見えてくるような気がする。

昨日読んだ本に、こんなエピソードがあった。まだ歩き始めたばかりのような子を連れて、ある記念日にすこしばかり高級なレストランに行った。ステーキが出てくる段になったが、その子のぶんは頼まなかった。小食でよく残すので、大人たちの分から一切れずつ分けてあげたのだ。するとその子は泣きながら訴えた。

「これはおじいちゃんの肉! これはおねえちゃんの肉! これはおかあさんの肉! これはおとうさんの肉! ぼくの肉がない!」

子供を子供だと見くびってはならない。どんなに小さくともひとりの立派な人間なのだ。あとは粛々と人生を歩んでゆくばかりで、子供と大人の境目などあるはずもない。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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