携帯電話に食い尽くされる日々(スマホやSNSによる人生時間の浪費)

最終更新: 2017/08/22

最近、携帯電話を持たないようにしている。電源を入れないとかではなく、そもそも家に置きっ放しにして、持ち歩かないのである。

もちろん、携帯は便利である。と、iPhoneをこと始めとするスマホの出現以前であれば、そう手放しで言えただろう。しかし、今では難しい。どうして、携帯を持ち歩いているだけで、摩耗や疲弊といった感じを覚えるのである。

その原因は、TwitterやfacebookといったSNSによるところが大きい。用もないのにたびたび開き、知る必要もない他人の行動を逐一チェックする。否、チェック〈してしまう〉のである。

電車内で本を読んでいたとしても、二、三行読んでは携帯を取り出してしまう。見ても有益なことなどほとんどないと重々わかっていながらも、無駄にアクセスしてタイムラインをざっざと流し見る。

なんのために? それが自分でもいまいちよくわからない。悪癖か、もっと強迫観念にも近いような気がする。なんにしろ、我ながらどうしようもなくその行動が不快なことだけは確かなのだ。

それならいっそと、持ち歩かないことにした。携帯が見たくても、無いのである。するとまず、携帯が無くても別段の不自由はないのだということに気がつく。そしてなにより、携帯を触らなくなると、信じられないほど気持ちが落ち着き、心安らぐのである。

携帯はいつでも誰とでも繋がれるものだという共通認識のうえに成り立っているが、いい加減やり過ぎで過剰なのではないだろうか。我々が手に入れたネットとは、その名の通り〈網〉であり、各々が好き勝手に知人友人恋人家族、その他不特定多数を漁る投網を打ちまくった結果、互いに絡まり合ってこんがらがって自縄自縛に陥っているのではなかろうか。

繋がる自由もあるが、繋がらない自由もあるのである。何を食べただとか、どこへ行っただとか、これほどまで緊密な連絡を取り合う必要などあるのだろうか。思い出してもみてほしい。誰しも若かりし頃、親の目の届かない一人になれる自分の部屋を渇望したのはなぜだったのか。大人になればそんな空間は必要ないのであろうか。

かつて寺山修司は『書を捨てよ、町へ出よう』と言って若者は熱狂したわけだが、なぜ誰もその単純な現代版として『スマホを捨てよ、町へ出よう』と言わないのであろうか。スマホができることは、どうがんばってみても「今ここにはいない人」とのやり取りであって、そこに没入すればするほど、当然「今目の前にいる人」は希薄になり、価値を失い、早晩消滅することは避けられないだろう。

アガサ・クリスティよろしく「そして誰もいなくなった」くらいでオチがつけばいいが、しかしこの先、駅も街も家も何もかも現実の事物は必要とされなくなり、ただスマホさえあれば事足りるようになるとも限らない。そのような世界を望むのであれば何も言うことはないが、少なくとも私は徹底抗戦の構えでスマホを捨てて町に出る。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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