広島に原爆は落ち続ける

最終更新: 2025/08/15

海外で、外国人に出身地を聞かれる。「日本」と答え、「ヒロシマ」と続ける。

すると十中八九は原爆の話になり、そして往々にして心配される。

「人は住んでいるのか?」などと真顔で聞かれたりする。私は面食らいつつ、今はまったくもって平穏で、私の親兄弟は今もみな広島で元気に暮らしていると説明する。

日本人であれば笑い話であろう。しかし、もしあなたが外国人に出会って「ルワンダ」出身だと言われたらどうか。漠然と彼の地を案じてしまうのではないだろうか。

植民地支配や内戦、大虐殺など多くの苦難を経験したルワンダだが、いまや東アフリカで最も治安が良く、清潔で整った国として注目されている。IT教育や政府のデジタル化も進み「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどだ。

そう、我々が知っている現実などほんの一部に過ぎない。そして我々が勝手に作り出すイメージなど、その小さな断片を無理矢理に拡大コピーしたようなもので、ノイズどころかもはや原型をとどめていない。

話は変わるが、久しぶりに地元の広島でお好み焼きを食べに行った。鉄板の前に座って、出来上がりを待つ。

広島のお好み焼きは、ぐちゃぐちゃではない。薄く焼いた生地に、もやし、キャベツ、麺、卵を順に重ねる。「大阪風」に比べて秩序がある。

しかし県外に出れば、これを「広島焼き」または「広島風お好み焼き」などと称する。むろん、広島ではこれぞ正真正銘の「お好み焼き」であり、一切の修飾語、形容詞は不要である。

ああ、そうかと思う。「内」から見るか、「外」から見るかで、同じモノやコトでも、まったく別モノになるのだと。それは「誤解」や「知識不足」などという次元ではない。本当に思っている通りが彼/彼女にとっての「真実」であり「現実」なのだ。

つまり、我々にとって、ルワンダの虐殺は終わっていない。おそらく、ガザもイスラエルもウクライナもロシアも、いつか戦禍は去って、まったくの平和を謳歌する日が来たとしても、日本人の「イメージ」が更新される日は来ない。

そう考えると、海外で出会った彼/彼女にとってみれば、「広島に原爆が落ち続けている」と言っても過言ではない。

事実、あれから80年も経っているのだ。人間の一生分の時が流れてなお、更新されない世界観がおいそれとアップデートされるのを期待する方がおかしい。

海外の人に限った話ではない。日本人の原爆に対する考え方もまったく進歩がない。いつまでも被害者ヅラで安直な平和を訴えるだけというのはあまりに芸がない。

原爆の当事者、いわゆる被爆者が消えつつある今だからこそ、原爆の意味をニュートラルに考えることのできる世代ならではの視座の拡張があってしかるべきではないか。

たとえば、以下は第二次世界大戦下のシンガポールで日本軍の捕虜となった英国の従軍画家が自身の極限状態の経験を著した「クワイ河捕虜収容所」の一節である。

アメリカが原子爆弾と呼ぶ二個の驚異的爆弾でヒロシマとナガサキを平らにしてしまったのだ。この二個の慈悲深い爆弾がわれわれの命を救ってくれたのだった。 (中略) 日本に投下された原子爆弾の効果のみを見て、アジアでの、あのまったく嫌になるほど長い間日本軍が行った戦争の期間、その日本軍が犯した邪悪でしかも筆舌に尽くしがたい残虐行為のかずかずを見ないで、また日本軍の管理下にあった丸腰で抵抗力のない全捕虜、被抑留者、民間人に対してなされた完全に非人道的待遇を考慮しないで、馬鹿げた平和主義者たちが何かの文句を言っているのを聞くが、私は断然、これらの日本軍が前述の人々に対して行った残虐行為だけでも、われわれを救出するのに使用された二個の原子爆弾を正当化するのに余りあるものだと考えている。

引用元: イラスト・クワイ河捕虜収容所: 地獄を見たイギリス兵の記録 (レオ ローリングズ (著)、 永瀬 隆 (翻訳)) https://www.amazon.co.jp/イラストクワイ河捕虜収容所―地獄を見たイギリス兵の記録-現代教養文庫-1109-レオ・ローリングズ/dp/4390111094

ヒロシマやナガサキばかりが地獄絵図なのではない。古今東西、戦争というものは基本的にどこを切り取っても地獄絵図なのであり、すべてはその一部に過ぎない。決して原爆だけが「特別」で「例外的」に悲惨なのではない。

被害者と加害者という安直な二項対立、これは善であれは悪、核兵器さえ無くなれば世界は平和――そんな価値観がはびこる限り、たぶんまたどこかが原爆を落とすし、落とされる。

なぜならそのような二元論は、往々にして「○○で解決」などというわかりやすく単純化された行為に行き着くからだ。

たかが恋人や夫婦の痴話喧嘩でも、それほど単純ではないはずだ。白でも黒でもない無限のグレーゾーンがある。二元論者は、それをねばり強く読み解いて和解する、あるいは妥協点を見つける努力をしない。

面倒くさいと手を抜いて、自分が正しい、あいつが悪いと切り捨てる。早晩、互いが互いを「ぶっ殺す」という結論に至るのは自然の成り行きである。

原爆というものが、そんな「ぶっ殺す」という短絡的な感情の何千、何億、何兆という集合体であるとすれば、それこそ永遠に、原爆は落ち続ける。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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2025/07/16 更新 酒に魂を売った男

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