アメリカ最悪の母≠日本最悪の母

  2019/08/28

あなたにとって最悪の母とはどんな母だろうか。以下のアメリカにおける最悪の母像は、日本人には想像もつかない。

『Free Range Kids』(Lenore Skebazy, Jossey-Bass, 2009)という本がある。「Free Range」は「放し飼い」という意味で、オーガニックの卵を買うときにも見かける。柵に閉じ込めずに飼育しているニワトリのことを指している。

この本の著者はニューヨークに住んでいて9歳の二男をひとりだけで地下鉄に乗せたという。本を書くための「実験」ではなく、子どもがひとりで地下鉄に乗って家まで帰ってくることができる年齢に達したという確信を持って実行に踏み切ったそうだ。日曜日の日中、携帯電話は持たせずに、地下鉄の路線図と緊急用の20ドル、公衆電話を使うときに必要な小銭だけを子どもに持たせた。子どもは一時間後、無事に家に帰ってきたという。

著者が新聞のコラムにこの話を掲載したところ、大問題になった。掲載されたその日の夜に有名なトークショー番組から電話がかかってきて出演を依頼され〜中略〜テレビ局や新聞、雑誌などが一挙に取材に押しかけてきた〜中略〜そしてメディアによってつけられたニックネームが「America's WORSTEST MOM(アメリカ最悪の母)」であった。

引用元:子どもがひとりで遊べない国、アメリカ―安全・安心パニック時代のアメリカ子育て事情(生活書院)谷口 輝世子(P191-P192) ※以降は「同書」と表記

これが普遍的な価値観であるとすれば、日本は最悪の母が跋扈する悪の巣窟である。私の母もその一人になるから、私の育った環境は最悪だったことになる。しかし私は至って幸せな幼年時代を過ごさせてもらったという自負がある。

アメリカでは『一般的に12歳以下の子どもを子どもだけの状態にしてはいけない(同書:P17)』とされている。私は過去にシンガポール、現在はアメリカのロサンゼルスに住み、多様な価値観に対する理解は持ち合わせているつもりだったが、これには拒絶反応を覚えた。

子どもはおろか結婚もしていない私がこの問題に関心を持ったのは、会社の上司を見ているからだ。彼には二人の子どもがあり、その送り迎えを毎日奥さんと分担している。朝の送迎は彼の担当らしく、いつも息を切らしてぎりぎりに出社する。私は最初、ただ教育熱心な家庭なのだと思っていた。しかし聞けば、それは法律で、子どもを一人になんかした日には逮捕されるのだという。まさかと私は笑ったが、冗談ではなかった。

大型の商業施設では、子どもを置き去りにしたとして母親が逮捕される事件があった。12歳の子ども二人に「ベビーシッター」として下の兄弟たちの面倒を見るようにと言い聞かせ、子どもたちだけを車から降ろしたという。母親は一時間後にむかえにいく約束だった。しばらくすると家に帰って休憩していた母親に、警察から電話がかかってきた。母親はケガか事故にでも巻き込まれたかと急いで商業施設に出向いたが、そこにいたのは二人の警察官と、うかない顔をした五人の子どもだった。警察官は子どもたちの目の前で、子どもを安全でない場所に置き去りにしたとして母親を逮捕した(同書:P31)

これで逮捕されるなら、日本の刑務所は早晩彼らのいう「最悪の母」で溢れる。やっぱりアメリカは治安が悪いからと思われる向きもあろうが、実際は1990年代はじめから犯罪件数は減少傾向にある。加えて、アメリカは危険な地域、安全な地域がはっきり分離しており、決して昼間でもおちおち出歩けないというわけではない。場所と時間さえ気をつければ、十分に子どもを自由にさせられるはずなのだ。

だが法律は法律としてあって、『目安として挙げられている例では、5歳の子どもがひとりで道を歩いていた場合は、保護者の育児放棄が問われる(同書:P18)』し、『子どもが公園で遊びたいとなれば、親はいっしょに歩いて付き添うか、車に乗せて公園まで連れていくしかない。だから公園や子どもの遊び場にいくと、子どもの数とほぼ同じだけ大人がいる。(同書:P27)』という現実がある。これをすばらしい育児環境だと感心する日本人はあまりいないだろう。率直に言って、過保護どころではなく異常だと思う。

言うまでもなく、私は育児の専門家でもなければ、人の親ですらない。しかし、『大人が始終子どもに付き添うことで、親と子は何かを失っているかもしれない(同書:P35)』という言葉に深く同意するのである。むろん、これはきわめて主観的な感想に過ぎない。しかしほとんどの親は、育児についていくら学ぼうとも、主観的にしか育児をすることができないのではないだろうか。我が子に何を食べさせ、何を着せ、何を教えるか。いかに世にある育児書が客観的な最適解を示そうが、結局は個々の親の主観に収斂する。

安全とか危険とかいう感覚には、それが顕著に現れる。どれだけ客観的なデータを示しても、主観がそれを容易に上書く。たとえば戦後日本の犯罪件数は減少し続け、直近の2018年など戦後最少を更新したにも関わらず、みな「最近は物騒になった」という。そのような親の主観は、確実に子に伝染する。

私の知り合いは高校生の娘さんと小学校高学年の息子さんがいるが、お母さんが二人とも送り迎えをしている。息子はスクールバスに乗って通うことができるのだが、バス停が大通りに面していて危ないという判断。娘さんに関しては、「こんな世の中、とても歩かせられない」とのこと〜中略〜「えー。あの大通りからバスに乗るの。家から離れているし、なんか怖い」と別のお母さん。そして、バス停まで男の子を歩かせている別のお母さんは「家からバス停まで400メートルもある。遠いわ。5分でも帰ってくるのが遅いととても心配で見に行くの」(同書:P46-P47)

世の中は最初から危険としてあるのでも、安全にあるのでもない。われわれ人間が作るのである。『放課後、小学生が校庭で遊ぶときでも親が付き添っているアメリカの光景自体が、そこに住むアメリカ市民に対して「安心できない社会」というメッセージを発していることになるのではないだろうか。(同書:P60)』

危険だ危険だと言ってそのように動けば、遅かれ早かれその通り危険な世界になる。株価の上下と同じで、人々のイメージは現実になるのだ。決して勝手に物騒になったのではない。われわれが「物騒にした」のである。この流れが続けば、いずれ日本もアメリカのようになるだろう。少なくとも私は、そんな国に住みたいとは思わない。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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