願わくば純粋な手作業だけしていたい
2017/08/22
ビックリマークなんて使ってはみたけれどテンションなんて無きに等しい。
基本的に飽きっぽくて無関心だから、あんま続かなそうな気はするけれど、
まあ、どうにかこうにか書いていくことにする。
いや、本当は今日は特別書きたいことがあって登録してから一度もいじって
なかったブログをスタートするに至ったのです。
で、唐突に今日のお題は「絵画に意味は必要? 不必要?」です。
で、さらに唐突に書き出します。
結論から言うと、絵画に意味など必要ない、です。
しかしこれはただし書きが必要で「昔は」を付けなければならない。
そう、昔は絵画の意味など必要なかった。
例えば原始時代、木の棒で地面に鹿や牛なんかを描いていた。
すると周りの人たちがそれを見て「わー、鹿だね。牛だね。そっくりだね」
描いた人は「えへへ」と照れ笑い。まあ、下手なら「何してんの?」と
問われるかもしれない。それでも、「鹿だよ、牛だよ」と言えばそれで終わり。
「その鹿は、牛は何を意味するんだい?」なんて誰も聞かないだろう。
鹿も牛も食べるものであって、そこに特別な意味などない。
まあ、あまりにもうまかったら、目を入れたら天に昇ってったっていう
画竜点睛みたいな感じで、「地面から出てきたらすぐにこのヤリで…」
なんて思うかもしれないが、もちろんそれは意味ではなく希望である。
まあ、原始時代は極端だから、ルネサンスとか、つまりダヴィンチとか
その辺りにしてみよう。あの辺りは皆誰かの為に描いていた。えらい王様の
肖像画とかはその典型。もしもその絵を見て「それは何を意味してるんですか?」
なんて聞こうものなら「貴様、愚弄するか!」と殺されかねない雰囲気。
そう、そこに意味はなく、ただ王様は自分の絵を描かれることによって権威を
表し、画家はその権威を描き切ったということで皆に尊敬されていた(そして
現代では、その時分に培われた画家に対する漠然とした尊敬だけが何故だか
知らないけど残っている)。
つまり意味は絵自体にあるのではなく、その行為自体に意味があるのである。
王様のご機嫌を取ったり、美味しいものを献上したりするのと完全なイコール
で結ばれるような、絵画それだけでは成立しない意味と、価値。
しかもその頃に描かれていたのは人物や風景といった完全な具象だから、
意味なんて付けようもなかった。「この森は何を表してるんですか?」なんて
聞いたらみんな馬鹿としか思わないだろう。実際。
だって森は森、湖は湖。それらはそれ以上でもそれ以下でもない。
ただ、そういうモノであるだけだ。
しかしいつしか画家は、王様とか他のえらい人とか、誰かの為ではなく、
自分の為に絵を描くようになった。まあ、自由を求めたんだろう。
で、自分主体となると描きたい対象は自分が決めるわけで、出来たその絵を
鑑賞者は何の予備知識もなく見ることになる。
なんだかしつこいけど王様とかの時であれば
「絵描きのジャックの野郎はわしをうまく描いたかな?」と、
見せられる絵を予め予想できたわけである。
しかし画家が自由な発想で描いた絵は当然予想だにしない絵なわけで、
見せられると鑑賞者は多かれ少なかれ首をひねらざるを得ないのである。
森や川なら、「これは森だね」「川だね」で単純に納得できるだろうけれど、
だんだんと自由度を加速させていく画家たちは変な色を使ってみたり(ゴッホ
とか)、目の悪い人が描いたみたいなぼんやりした絵を描いてみたりと(モネとか)
どんどん自分主体、言い換えれば自己中心的に、それぞれが好む絵画を
推し進めていったのである。
つまり、画家は描くことに没頭し、鑑賞者を忘れたのである。
その時点で画家は画家ではなくただのエゴイストとなった、といっても
あながち間違いではあるまい。
例えるなら、南の島に十年行っていた友人が帰ってきた。
以前は親友だった人である。
しかしその再開、うまく意志疎通ができるだろうか? 性格というのはそう
変わるものではないから、あるいは、すぐに以前のように振る舞えるかもしれ
ない。
しかし大半は、お互いの口調や、話の内容や、容姿の変化に戸惑い、相互理解
には相当の時間と労力がかかってしまうだろう。
南の島は画家でいうアトリエである。
アトリエにこもって、一人でうんうん考えて、出来たー、と街に繰り出す。
おっ、絵描きのじっさん久しぶり、なんだその絵? 意味わかんねえな。
となってしまうのは必然ではないだろうか。
で、しかたなく絵描きのじっさんは語る。「これはな、アトリエの小さな窓か
ら入ってくる木漏れ日を形ではなく純粋に色で表現したのだよ」とかなんとか。
そう、仕方なく、なのである。
で、その流れは今も脈々と続いていて、画家は日毎にとんでもない理解不能な絵
を描くもんだから、鑑賞者は「これは何を意味するんですか?」と、まず問う
ようになる。
当たり前といえば当たり前である。
ある意味、鑑賞者は優し過ぎた。
「意味わからん」とみんながつっぱねれば、今でも美術館には具象絵画しか
なかったかもしれない。
というわけで、優しい鑑賞者のために、現代では絵に意味が必要なのである。
というか、そうなってしまったのである。
「いいや、それでも意味なんてない!」と反抗することもできるけれど、
それはやはり少数派にならざるを得ない。
何故なら、「絵のことはわからない」という人が多数派だからである。
結論:優しい鑑賞者のために(せいで)、そしてエゴイズムにまみれた
古今東西の画家たちのために(せいで)、現代を生きる画家は絵に説明書を
付けざるを得なくなってしまったのである。
そして僕も例外ではなくエゴイストである。
つーか初日からこんな書いたら続かなそー、というかしょっぱながこんな
めんどくさい文だったら、読んでくれる人とかいなさそー、
明日からはなるべく、なるべく肩の力を抜きたいと思います。
いや、基本的に固い人間だから多分無理なんだけどね。
でも読んでね。むなしくなるから。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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