暑い夏の日の夕暮れに「野火」を見た。
2017/08/22
大人になって、というか、つい最近わかってきたことがある。
たとえば、私は相当な気分屋である。正直、ここまで気分屋だとは思っていなかった。だから、前々から予定を入れるのが嫌いである。当日の気分がわからないからである。
それから、私は変わり者である。以前は、「変わり者になりたいふつうの人」だという自己認識でいたが、どうやら、本当にふつうではないらしい。それなら長年の願望がかなったと喜んでもよさそうなものだが、しかし、人間とは不思議なもので、そう言われると逆に不安を覚えてしまうのである。
いや、おれはね、本当の本当はふつうの人で常識人なんだけど、変わり者を演じてるだけなんだよと主張してみても、真顔で「いや、おまえは確かに変わり者だと思う」と言われてしまい、嗚呼、ということは、私の今生に”ふつうのありふれた人生”はあり得ないのかと、ちょっと遠い目になってしまう。
閑話休題。
さて、ようやく表題の野火についてだが、先々週くらいに立川のシネマシティで見た。すでに日付があやしい。もう、よく覚えていない。
鑑賞直後こそすぐにブログに感想を書きたい! 絶対書くッ! と息巻いていたが、現時点では無気力かつ放心、あー、そういえば、見たね、いつか忘れたけど、くらいのモチベーションしかない。そこをなんとか、無理をしてでも言葉を絞り出したい。おざなりな批評になること必死であるが、ひと夏の思い出にでもお付き合いいただければ幸いである。
「野火」は戦争映画である。上層部の政治的なやり取りではなく、実際の戦場にフォーカスを当てている。それで、脳みそバーン、はらわたドバーッと、グロい場面が目白押しである。そこにきてフィリピンだかどっかの熱帯雨林の緑が美しい。
赤の補色は緑である。逆に言えば、緑の補色は赤である。だから、鮮血が生い茂る草木に飛び散ると、赤も緑もいっそう鮮やかに映える。
まずそこで、単なるグロいを超えた表現が生まれていると思う。我々(大ざっぱに戦後生まれとしよう)の戦争イメージは、だいたい白黒である。それは、よくも悪くも遠く、非現実的にかすんでいる。確かにそのような時代があったことはわかるが、どうにも血が通わない。汗や脂、触れれば肌のきめや弾力があるだろう肉感を想像することができない。
ところがこの映画は、我々の戦争イメージに鮮やかに彩色し、これでもかと肉付けを施してくる。もっと、映画というフィクションの枠を超えて、今まで見てきたいくつもの白黒の歴史的資料イメージのすべてが”リアル”に塗り替えられるような気さえした。
そうしてこの映画はひたすらに”リアル”であった。これはあくまでフィクションで嘘だという頭で見ている反面、頭の中にある現実の戦争イメージはいよいよ”リアル”になっていく。それこそ大げさな虚構であれば何よりだが、どう控えめに見積もっても、戦争とはかくも悲惨なものであるしかないだろうと思わざるを得ない。
どこまでも続く青々とした緑。ジャングル。雄大な自然。そこで脚が吹き飛び、顔面が砕け、内臓が飛散する。それでも、自然はただ静かにそこにあり、血液さえもまるで恵みの雨のように受け止める。
自然は何も与えないし、何も奪わない。悠然と存在するだけである。その傍らで、人間が勝手に悲喜こもごもを演じているだけである。
それにしても、緑がやけに美しい。あまりにもみずみずしく、生命感に溢れている。その草木を、死人のように疲れ果てた兵士がかきわけかきわけ進んでゆく。そこに生じるコントラストのすさまじさは筆舌に尽くしがたい。
兵士はじきに本当に死人になる。肉体もとい肉塊と鮮血をほとばしらせて、先に述べたカラーリングとして、緑と赤のコントラストを演出する。
その連続である。こう、漠然とむなしくなってくる。戦争とは、人間とは、生きるとは、いったいなんなんだろう。
塚本晋也監督曰く、あえて場所や歴史的状況を明確に設定しなかったらしいが、その意図はすばらしい効果をあげているように思う。
もう、とうの昔に結論は出ているのではないだろうか。戦争はろくなものではない。戦争なんてしないほうがいい。誰だってそう思っているはずなのに、その当たり前のことが、なぜ当たり前にできないのだろう。
この地球上から戦争がなくなることは無いといわれる。たぶん、その通りなのだろう。人間って、馬鹿だから、愚かだから。ペシミスティックに笑いながら、そんな月並みなことをつぶやくしかないが、少なくとも、人間は万能ではなく、決して神ではないということだけは重々認識しておいたほうが健全だろうし、まだしも救いがあるだろうと思う。
いついかなる時も、なにをするにしろ、常にここから始めるべきではないだろうか。つまり、人間は、馬鹿で愚かでどうしようもないんだというところから。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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