桜が食えるか、犬を食う(ホームレスとフランダースの犬の主人公ネロの共通点と差異)

最終更新: 2017/08/22

桜が咲くと、人が群がる。肴に酒にと抱え込んで、宴が始まる。毎年のことであり、別に珍しくもない。春で暖かくなる時分でもあるし、そこへぱっと花が開けば心浮かれるのが人心である。

そのよく晴れた春の日も、公園にある桜の木の下でブルーシートを広げて数人の男女が小宴を開いていた。桜はまさに満開であった。腰を下ろして見上げれば、何はなくとも気持ちが華やぐことだろうーー。私はそう思いながら、ゆったりと歩いた。

はす向かいの小道に入る。と、ひとりのホームレスとおぼしき薄汚れた男が、カートにまとめた家財一式にもたれかかり、ぐったりと天を仰いでいた。別に珍しくもなく通り過ぎたが、しかし、なんとはなしに振り返った。浅黒いホームレスの男の背後に、透き通るピンクの桜の枝がのぞいていた。

男がほんの少し、道の反対側に2、3メートルも移動すれば、美しい桜がはっきりと望めることは明らかだった。しかし、男はそこに居を定めたように微動だにしなかった。

この世にある、万人に与えられた幸福を思った。たとえば空気は、いくら吸ってもタダである。たとえば晴天は、いくら陽を浴びようが誰から文句を言われるものでもない。そして桜もまた、どれだけ見ようが人の勝手で自由である。そう、たとえホームレスで無一文だとしても、彼が桜を愛で、春のひとときを享受することを阻むものは何もない。

にも関わらず、彼はわざわざ日当たりの悪い塀の陰にうずくまって、桜など全然見向きもしないのであった。貧すれば鈍す、というやつかと考えた。いま、彼に必要なのは腹の足しにもならない桜などではなく、現実的な金銭なのだ、と。

そうは言っても、確かフランダースの犬の主人公ネロは、困窮の果てにルーベンスの絵を見て死んでいったのではなかったか。つまりそれは、先のホームレスでいうところの桜である。腹が減って金もなく、いよいよ野垂れ死のうという時になってなお、なんの足しにもならない絵を見たのである。

両者の違いはいったいなんだろうか。状況は酷似している。となればあとは頭の中の、志か、プライドか、信仰かーー。様々考えられるが、それは結局のところ年齢ではないだろうか。

その推測を裏付けるような事件を、いくつか知っている。ある女子高生が、親にテストの点数について小言を言われた。こんなことでは将来ろくな人間にならないとも。彼女はその日から、逆に一切勉強をしなくなり、素行も急激に悪化した。そしてついに妊娠して高校を中退することにまでなった。親の言ったことを、あえて身を持って証明してやろうと意地を通したのである。あるいはもっと極端な例では、思春期の少年がある日、自分で選んで買ってきた靴下を親にけなされた。怒った少年は家を飛び出して、そのまま裏山で首を吊って死んだ。

ある程度の大人になれば、そんな馬鹿なと思わざるを得ない行動である。しかし、彼らはそれだけ純粋で、だからこそ極端に突っ走るのである。若さは清く爽やかなエネルギーであると同時に、自爆をも厭わない暴力性をはらんで禍々しいものである。フランダースの犬のネロにしても、その若さゆえの妥協を許さない理想主義が、飢えて死にかけてなお、ルーベンスの絵に執着させたのである。

私は遠く離れて、長いことホームレスの男を見ていた。彼は全然動かなかった。わずか数歩の先で、桜は気前よく大盤振る舞いに咲き誇っている。いったい彼は、いま、何が欲しいのだろう。

フランダースの犬で、ネロは死の間際にパトラッシュを抱いて言う。「ふたりで横になっていっしょに死のう。人はぼくたちには用がないんだ。ふたりっきりなんだ」――。もしかすると彼は、願わくば運命をともにする何ものかを欲しているのかもしれない。だとすれば、せめて身を寄せるパトラッシュのような犬の一匹でもいればと思ったが、桜も見えない現実的な彼は、いっそ犬をとって食ってしまうような気もした。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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