言葉のすき間と画のすき間(小池真理子『無伴奏』の映画を見て、小説を読んでの感想)
2020/06/26
先日、小池真理子原作の『無伴奏』が映画化された。と言っても、原作の小説は読んだこともなく、そもそも知りもしなかった。たまたま予告編を目にして、映画館に足を運んだのである。
物語は、大学闘争のただ中にあった昭和を舞台とした、女子高生の響子と大学生の渉(わたる)との恋愛悲話である。雑な説明だと思われるかもしれないが、そういうわけでもない。
よく言われることだが、名作の条件のひとつに〈明快さ〉ということがある。ドストエフスキーの『罪と罰』であれば金貸しの婆を殺して悩んだ話だし、太宰治の『走れメロス』は友達を助けるために全力で走った話である。中島敦の『山月記』は名誉を追い求め過ぎたら虎になった話で、ついでに絵本の『ちびくろさんぼ』は虎がバターになっちゃってホットケーキに塗って食べたらおいしかったという話である。
そうして『無伴奏』もまた然りなのである。昭和らしく全編セピア色という感じで、実際、画肌もそのように作り込まれていた。しかし、私はそこに時代的な雰囲気よりも、永遠不滅の狂おしい青春のノスタルジーをこそ濃厚に感じた。そこで交わされる言葉のひとつひとつ、流れる空気、画面の隅々までもが、私にはたまらなく愛おしかった。
そうしてエンドロールが流れ始めるが早いか、私はうるんだ眼で携帯を操作して、ネットで原作の小説を購入したのだった。要するに、とてもよかったのである。
その小説も読み終わって、いま、私の頭の中には小池真理子が編んだ『無伴奏』という物語が、映像と小説と絡まり合ってひとつになって納まっている。そこでふつうに考えれば、そのどちらか一方しか観ていない/読んでいない人にくらべて、私は『無伴奏』のことをよく知っており、理解しているはずである。
しかしどうして、私は逆にこの作品の〈隙間〉をこそ強く感じているのである。作品の質を論じるのではない。どんなメディアにもある、表現の限界という意味での〈隙間〉である。たとえば、言葉で「赤いりんご」と表現しても、どのような赤さや大きさなのかまでは伝わらない。しかし映像では、たった一コマで伝え切ることができる。とはいえ映像では、人物の姿形はよく分かっても、何を思いどのように考えているのかまではわからない。そこは言葉でなければ伝わらないものであろう。
そのようなメディアの特性を考えれば、その両方が組み合わさることで、相互補完的な働きをして、物語が一層深く理解されてしかるべきではないだろうか。たとえ映画の方は小池真理子本人がメガホンを握っていなくとも、何らかの重層や深まりはあっていい。それが鑑賞者の誤解や勘違いだとしてもである。
にも関わらず、両方を鑑賞した私には、作品に対する理解よりも、不明の方こそが膨らんでいるのである。いっそ作品そのものが逃げていったようにさえ思われる。それは何故だろうかと考えてみるに、逆説的な物言いになるが、作品世界を知りすぎた、わかりすぎたからではないかと思うのだ。
それはちょうど家族のように、近過ぎて不明になってしまっているのである。人は、毎日見たり接したりしているものが何なのか、よくわからない。呆れるほどにわからないのだ。
その感覚の典型的な発露が不倫であろう。夫は、妻は、相手を毎日見ている。それはいつでも空気のように、その姿形と気立てでもって存在するものでしかない。息を止めでもしなければ空気の存在を感じられないように、単調な日常生活の中でお互いが何であるかはどこまでも溶け出して薄まり、認識不可能になってゆく。そして行方不明になったその価値を発見して掘り起こすのは決まって赤の他人、つまり不倫相手というわけである。
そう、人にしろ作品にしろ、真の理解というものは、息のかかる距離や十分な説明よりも、埋められない隙間や満ち足りない不足の中にこそ鮮やかに存在するのではないだろうか。たとえば、硬いアスファルトの割れ目からひょっこり伸びた草花にはっとさせられるように。あるいはよその母親の人となりが、冷蔵庫に張られたメモ一枚で完全に伝わってしまうということがあり得るように、である。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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