ほぼエッセイ、ときどき現代の美術とアート。

飽きるとは何か(子供の感性を失った大人の飽きについて)

  2019/03/09

「悪いな。もう、おまえには飽きたんだ」

昔の安いドラマにあるお決まりのセリフである。そして女はすがりつき、なぜ? どうして? と泣くことになっているが、そう言われても飽きたものは飽きたとしか言いようがない。

とにもかくにも人は飽きる。洋服や音楽は言わずもがな、仕事や住宅、時には人生そのものにさえ飽きてしまう。ひょっとすると、世界の経済は原油価格なんかよりも、よほどこの〈飽き〉に振り回されているのかもしれない。すなわち、飽きたから捨てるのであり、飽きるから新しいものを求めるのである。

飽きると同様に、人は慣れる。あるいは戦争でさえ慣れることができるらしいが、しかし、この世に飽きないものもまたないのだろうか。34年ほど生きてきた私の率直な実感としては、飽きないものはない。お気に入りの服も毎日着れば飽きるし、好物とて毎食も食べれば飽きるだろうし、いくら好きな人でも始終べったりしていれば飽きてしまう。

それでも飽きないのだと言う人は、何か無理をしているか、そういうものなのだと諦めているのか、あるいは〈悟りの境地〉に達しているとしか思えない。少なくとも、私は飽きる。人間とは、そのようにできているのだと思う。

しかし、その考えも、どうやら再考せざるを得ないと思わずにはいられない一節に出くわした。以下、少々長いのだが、【子どもとことば(岩波新書)岡本夏木】より引用させていただく。

子どもは見慣れた物よりも、新しい物の方を好むこともよく知られている。日頃から遊び慣れてよく知っているオモチャと、はじめて見る変わったオモチャをならべておいてみると、新しい方をよく見、そちらへ手を出すことが多い。
(中略)
子どもははじめの頃は、どのような人に対してもきわめて愛想よい時期を送るが、五、六か月になると様相が変ってきて、いわゆる人見知りが始まる。
(中略)
これは旧いものより新しいものに向うという物の場合での傾向とは相反するようにみえる。母親はこれまでいちばんよく接してきている人であるのに、新奇な人より、旧い母親の方をとるのである。物に対しては新しい方を、人に対しては旧い方をとるのであろうか。いやそうではなくて、子どもにとって、母親は決して旧くならず、いつでも新しいからなのだと私は思う。
(中略)
物と異なり、人は決して機械的に同じ反応をいつまでもくり返していくのではない。母親はとくに意識的にやっているのではなくとも、その反応のしかたは微妙にそのときそのとき変化している。子どもに飽きが見えてくると、同じ反応のようであっても声音をかえてみたり、叩いてやる身体の場所をかえてやったりする。
(中略)
母親は「旧いのに好かれる」のでなく、子どもの身近にあって「つねに新しく」在りうるのである。
【子どもとことば(岩波新書)岡本夏木】 P40-42

これを読んで、私はいささか恥じ入った。私はあまりにも物事を無味乾燥な記号的に捉えるきらいがあるからだ。

誰でも人は変化する。昨日と今日が、いくら似ていても二度とは再現されることのない、かけがえのない一日であるように。にも関わらず、私は往々にしてその変化を無視してしまうのである。

なぜなら、変化とは実に面倒くさいものだからだ。たとえば、女性は髪型の変化に気づかれないと嘆いたりするが、しかし、あくまでもAさんはAさんであり、BさんはBさんでしかない。BさんがCさんにでも変わったというのならば刮目もするが、髪の毛がちょっと短くなったかうねらせたかに、いちいち気づけというほうが無理である。

仮にどぎつくパンチパーマになっていたとしても、目に染みるようなスキンヘッドになっていたとしても、その人はその人でしかない。どんな人でも、私がいったんこうだと認識するやいなや、たちまちメデューサに睨まれたように石化して、完全に停止してしまうのである。

そうして飽きが生じるのは、自明の理であろう。だが、しかと目を見開けば、いわゆる心の目で相手を見てみれば、『決して旧くならず、いつでも新し』く在りうるのである。それは発見の連続だということだ。私も幼少の時分は確かにその通り、日々は新鮮な驚きと感動に満ち溢れていた。そのことを思えば、私はなんとつまらなく世間ずれしてしまったものだろうかと悲嘆に暮れてしまう。

やはり、どのような意味においても、大人になることは哀しい。子どもの言う、お母さん、お母さん、お母さんというたわいない繰り返しが、しかしその都度新鮮な響きを持って胸に広がっているとは、いったいどれほど感動的なことだろう。あるいは六十の還暦は、そのような境地が再び訪れることを言うのかもしれない。そうだとしても私には、孫に囲まれて赤いちゃんちゃんこを着せられているどころか、ひとりやるせなく酒を呑んでいるような画しか浮かんでこないのである。

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