アンチによるアンチのためのアンチエイジング

ふと気がつけばシワが増え、あるいは深くなり、こんなところにあったかしら――シミやホクロができている。

いくらかの人生を生きれば、誰しもみな一度は思うことである。

誰しもみな思うことはニーズになる。ニーズを満たせば商売になる。つまりカネになる。「アンチエイジング」はビジネスの典型的な成功例と言える。

表現が絶妙だ。「エイジング」、直訳すれば「加齢」という、字面からして抜け毛がハラリ、歯茎から血のにじみそうな萎えるイメージに対し、「アンチ」すなわち「抵抗」という、拳を振り上げ主義主張を叫びまくる無駄に元気な若者を想起させる言葉が接続されているせいか、一度聞いたら忘れられない響きがある。

キリスト教冒涜的パフォーマンスで数々の抗議運動を巻き起こしたアメリカのロックミュージシャン、マリリン・マンソンの名曲「アンチクライスト・スーパースター」のノリを借用すれば、アンチエイジングとは「くたばれ加齢」ということになろう。

分別のある妙齢の紳士、ご婦人など、間違っても死ぬまで使わなかったはずの「アンチ」もとい「くたばれ」という言葉がこれほど受け入れられたのは、それだけ我が顔のシミ、シワ、ほうれい線、日ごとにわびしくなる毛髪、カサつく手、薄くなった皮膚に浮かぶ青筋、しなびた腕、粉ふく足、肉体のあらゆる部位の老化に対する怒り、悲しみ、憎しみの恐ろしく激烈なことの証左に他ならない。

そう、年齢相当にしなびて柔和に見えるこの人も、あの人も、願わくば加齢をぶち殺してやりたいと心中穏やかではないのである。

古今東西、老いに抗わんと若い娘を殺して生き血を浴びる、すする、なんて伝説が無数に存在するが、ちょっと時代と状況が違えば、誰もが同じ穴のムジナである。実際、人間の胎盤由来のプラセンタ注射なんてのは、そんな発想の現代版ではないか。

アンチエイジングの原点を辿れば「不老不死」への欲望に帰着する。その歴史は狂気そのものだ。不老不死の秘薬としてヒ素を舐めたり水銀を飲んだり放射線を浴びたり、処女の尿にヤギの精液、注射したり移植したり、猿の睾丸、ミイラの脂、果ては人肉を煮たり煎じたりの最先端がアンチエイジングというわけだ。

しかし、べつに進歩したわけではない。狂っているのは相変わらずで、昔とは手法が異なるだけである。にんにく注射に高濃度ビタミンC点滴、ヒアルロン酸にボトックスと、なんにしろ得体の知れない物質を静脈に打ち込むことは「ふつう」でもなければ「正気」でもない。

特にボトックスなど、もとは神経毒として発見された物質である。若返るかのようだが、ボツリヌス菌が産生する毒素が顔面の筋肉を麻痺させることで、シワが目立たなくなっているだけなのだ。真顔の笑わない人形にほうれい線など存在しようがないのと同じである。

なんにしろ、若く見えればそれでいいということだろう。大枚はたいて自らの顔面に毒物を打ち込む人は後をたたない。そして数か月後にはまぶたが下がった、頬がたるんだと、また一発、もう一発と繰り返す。それはドラッグに溺れたヤク中と一体なにが違うのか。

目的のためなら金に糸目はつけない。手段も選ばない――この種の思考回路はヤクザのそれであって、どう考えてもカタギの論理ではない。

とはいえ、不老あるいは不死というのは、単に「今はまだ不可能」というだけなのかもしれない。そう遠くない未来、誰もが牛丼を食うくらい気軽に不老不死になれる世界線が訪れないとも限らない。

現に、Google系の長寿研究企業や、ChatGPTで知られるOpenAI創業者のサム・アルトマンが出資する生命工学企業には莫大な資金が流れ込んでいる。その背景には、人間は将来的に事故や災害でもない限り「死なない」存在になれるのではないかという期待がある。

決して夢物語ではない。今となってはすごいともなんとも思わないスマートフォンでさえ、100年前の人間にとってはSFの世界の話だったのだ。そもそも、現代社会を構成するテクノロジーのほとんどは、かつてのSFそのものである。ゆえに、早いか遅いかの話で、これまた現実になる日は来る。

老いません。死にません――はじめこそ幸せで、愉快かもしれない。しかし、人工的な行為は、たいてい後になってその弊害があらわになるものだ。

泥ハネをなくすべく道路をアスファルトで覆えば、夏には地面が焼けてヒートアイランド化し、山を切り崩して道路や住宅を作れば土砂崩れや洪水が起こる。河川の護岸をコンクリートで固めれば、魚が産卵する浅瀬や水草がなくなり魚も消える。河口では貝が減り、海藻は育たない。

害虫を駆除しようと殺虫剤をまけば、翌年には耐性を持った害虫が現れ、さらに強力な薬剤が必要になる。おまけに害虫を食べてくれていた鳥や虫まで死に絶える。この手の話はレイチェル・カーソンの名著「沈黙の春」にうんざりするほど書いてある。

開発を計画して実行した当初はよかった。誰もがそれを素晴らしい発展、もっと言えば人類のテクノロジーの勝利だと信じて疑わなかった。

時は流れる。その影響が誰の目にも明らかになる。今、人類がもはや手遅れの焼け石に水的に取り組んでいるのが、それらを「元に戻す」行為である。脱舗装とばかりにアスファルトやタイルをはがし、あらためて草木を植えて、ふたたび河に魚を、森にかつての鳥を、野原には虫たちを、うんぬん。

これほどバカバカしいことがあるだろうか。てめえが余計なことさえしなければ、そもそもこんな問題は起きなかったのである。

私は確信する。不老不死のなれの果てはこれと同じである。しょせん、人間のすることなど、どこまで行ってもサル知恵の域を出ないのだ。

しかもタチの悪いことに、今までは人間がいくら愚かでも、最悪「死ぬまで後悔」するだけで済んだが、今度ばかりは文字通り「永遠に後悔」することになる。

そうなるとまた呆れるほどご苦労なことに、新たに老いる方法、死ぬ方法を開発することになるのだろうと思うと、ほとほと人間であることが嫌になる。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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2026/04/27 更新 唾液のフィールドを駆け抜けて

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