批判の矛先(知的障害と音漏れ)
2017/08/22
電車内での迷惑行為ランキングの常連と言えば〈音漏れ〉である。
音漏れの何がどう不愉快なのかは、くどくどと私が述べるまでもない。それよりもよほど説得力があるだろう、京王電鉄のマナー川柳から二つほど紹介することにしたい。
不快音 こちらがしたい ヘッドホン(湯浅さん/調布市)
名曲も うっとりするのは あなただけ(竹原さん/調布市)
引用元【第29回 京王マナー川柳 入選作品 テーマ「ヘッドホンステレオの音漏れ」】 http://www.keio.co.jp/gallery/manner/29/top01.html
ところで、ここ半年くらい、およそ三分の一くらいの高率で乗り合わせる〈音漏らし野郎〉がいる。いつも私が利用している駅から乗車すると既に居り、そこから九つか十くらいの駅を乗り合わせることになる。念のため、具体的な路線と駅名は伏せさせていただきたい。というのも、今回論じようとしている方はいささか個性的な人物のため、私がここに書くことによって個人が特定される可能性を考慮してのことである。
さて、その音漏らし野郎はいつも乗車口付近にべったりと張り付いている。歳の頃は30歳前後だろうか、とにかくは若者の部類である。たいていジャージにも近い服装をしている。そしてイヤホンではなくごついヘッドホンをつけて、いつも盛大に音を漏らしている。正直、うるさい。なんと言っても音漏れ度合いはかなりのもので、それに音漏れ確率は100%なのだ。最近では、音漏れと聞けば即座にそいつだと感づく。(奴が乗ってる!)そう思うと、反射的に苛立ちと嫌悪とが込み上げてくる。
さすがに毎度毎度なので、温厚な私でもいつか注意してやろうと思わなくもない。しかし、それは難しい。私が気が小さいというのもあるが、それ以上に、倫理的あるいは道徳的に難しいのだ。
それは、音漏れ野郎は音を漏らすだけではなく、もう一つ看過できない要素があるからなのだ。どの路線でもそうだが、各駅に近づくとアナウンスが流れる。『次は~〇〇駅、〇〇駅』というやつである。もちろん問題の路線でも流れるのだが、音漏らし野郎が乗っている時は、そのアナウンスがエコーする。なぜなら、車内アナウンスとは別に、音漏らし野郎も〈自発的〉に〈地声〉でアナウンスしちゃってくれてるからだ。
お察しの良い方はこの時点でお気づきだろう。そう、彼は知的障害者らしいのである。となれば、我々健常者は、倫理でもって、あるいは道徳でもって、彼に何かしらの支援をするべきだろう。それは具体的なアクションに限らず、平素は静かに見守り、困っていたら手を差し伸べるというような目に見えない姿勢も含めての支援である。
しかし彼は、同時にどうしようもなく音漏らし野郎なのである。それでもやはり知的障害者でもあり、ひとり『足元にご注意ください。出口は右側です』などと意外な美声でしゃべっていても、我々は温かく見守らねばならない。だとしても百歩譲っても彼は非常な迷惑を撒き散らす音漏らし野郎であることに違いはなく、とはいえやっぱり知的障害者でもあるしと、考えれば考えるほど、彼に対する我々の正しい態度なるものがかすんでいってしまうのである。
ここはひとつ問題を切り分ける必要があるのかもしれない。音漏れは音漏れとして毅然とした態度で注意する。その後、彼自身及び彼の十八番であるひとりアナウンスを温かく見守る。しかし、彼が音漏れという迷惑行為を理解してくれるのかどうか、私には自信がない。そもそも、音漏れは彼が悪いのだろうか。彼自身に起因する、彼が責任を負うべき問題なのだろうか。
たとえば、耳の聞こえない人に〈人の話しを聞かない〉と言って非難することほど不条理なことはないだろう。同じように、知的に障害のある彼が、音漏れや迷惑という概念をつゆほども理解できず、しかしそれでもようやくで音楽を楽しめるまでに成長して、それが彼にとっての人生の大きな進歩であり収穫だったとしたら、それは彼に責任があるのだろうか。
先天的なものにしろ後天的なものにしろ、彼の肉体や精神にあるハンディキャップに対して、我々に文句を言う権利などあるのだろうか。いや、あっていいものなのだろうか。仮にあったとして、我々はまず先に、音漏れに対してか、あるいは知的障害に対してか、どちらに文句をつけるべきなのだろうか。はたまた産み落とした親にか、その先祖にか、もっとアダムとイヴにでもケチをつけるべきなのか、どうか。
正直、答えは出ない。注意深く慎重に、正しい結論を導き出そうとすればするほど、鶏が先か卵が先か的なジレンマにがんじがらめになってしまう。しかし、現に問題は今も解消しがたく存在する。今日も今日とて、彼は賑やかに音漏れをさせて、ひとりアナウンスに精を出す。
〈共存〉あるいは〈共生〉という言葉が頭をよぎる。次いで、かのキング牧師がこんなことを言っていたのを思い出す。『人は兄弟姉妹として、共に生きていく術を学ばなければならない。それが出来なければ、私たちは愚か者として共に滅びることになる』――言うまでもなく、共に生きるとは無碍にしたり目を背けることではないはずだ。
しかし、私に限らず、その手の〈面倒臭い人たち〉のことを、願わくば遠ざけて関わりたくないと思う人が大半なのではないだろうか。その証拠に、誰も彼のことを注意する人はいない。諭す人はもっといない。たぶん、これからもいないだろうと思う。万が一いたとしても酔っ払いくらいのものだろう――。そうして戯れに、我々はいっそ酔っ払い以下だということかもしれないと考えてみるに、これが意外に正論のようにも思われて、なんていうのはちょっと詭弁に過ぎるだろうか。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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