レントゲン芸術倉庫ツアー

最終更新: 2017/08/22

つまり、どこにも行きたくない-F1000276.jpg

一昨日は那須にある芸術倉庫に行った。日帰りバスツアーである。
なのに画像は帰り道でお土産に買ったさしみこんにゃくの、しかも、空き箱。
肝心の中身はと言えば、さしみこんにゃくもバカにできんにゃ~という旨さだったのだが、そのあとなんとなーくその箱を適当に切ってみた。いわゆる図画工作的に。
切り刻んでいるうちになんだかおもしろくなってきて、また昔はこんなことばっかりしよったのに最近はまったくせんくなったなあと思った。
でも本質を考えたとき、しなくなったのはそういう図画工作というようなことではなく「無駄なこと」だということに気がついた。
昔、といってもまあ僕が子供のころは穴を掘ったり広告の裏に絵を買いたり広告を丸めて吹き矢を作ったり今回のように紙をジョキジョキやったりととにかくはこれでもかというほど無駄な行為の中で遊んでいた。いや遊んでいるという自覚すらなくなんとなくそんなことをやっていた。無目的に、いやそれは無目的ではなく行為それ自体が目的なのであって言うならそれは「ピュアな行為」なのであろう。
それはアウトサイダーアート、またはデュビュッフェが唱えたアールブリュット、つまり生の芸術そのものだったような気がする、とか言ってオッと、さっそく知識をひけらかしてしまう僕、この僕、もはや不純の権化、ピュアなどとつぶやけば口が腐りかねないほどに擦り切れてしまっている、僕、ぼく、打撲。
それが大人になるということなのかもしれない。必要か不必要か、得か損かということを行動原理として生きていく。それが大人なのかもしれない。
ほんとにそうなのかもしれない。だって空き箱を切り始めた時点で僕の頭の片隅には(ブログのネタになりそ)とかいう考えがあり写メを撮ったときにはこの記事はもはや決まりだと思ったりしていた。
なんとなく、たぶんもう二度と、無駄なことってのはできないんだろうと思う。
無駄なことのように見える行為をしながらも、頭の隅には(こういう無駄な行為の中で見えてくるものもあるだろう)なんて、性懲りもなく何かを得ようとしてとめどないのだ。
ピュアって、永遠や0とかと同じものなのかもしれない、な。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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