ここにないものが、ほしいわ。

表題を見てバブルの時代を思い出された方はおそらく年配の方であろう。というのも、糸井重里作の1988年の西武百貨店のキャッチコピー、『ほしいものが、ほしいわ。』のもじりだからである。

戦後日本が豊かになり、一通りのモノを手に入れたころに打ち出されたこのキャッチコピーは、時代の空気を鮮やかにすくい取った傑作である。それから30年近く時は流れて今、人々が何をほしがっているのかと言えば、まあ『モノより思い出』ということになるだろうか。

ところで昨日、私はシンガポールにある回転寿司屋を訪れた。海外で供される日本食はおかしなものばかりだと聞いていたが、どうして意外なほどにまともであった。在星して二週間あまり、食べるものと言えば中華系かインド系、とかく油ぎって味の濃いものばかりで辟易していたところに、酢飯の味はほとんど薬のようであった。

感激して皿を重ねていると、不意に「いらしゃませー!」と店員が叫ぶ。すかさず他の店員も復唱する。思いがけず日本語を耳にして、私は怪しんだ。別に日本人の店員で固められているわけでもない。だから、「いらしゃませー!」は、時に「ませー!」などと、妙な略し方をされていたりもした。

来客があるたびにそれは繰り返されて、私はようやくで合点がいった。日本でもたまに「ウェルカーム!」などと言って客を迎える店があるが、あれと同じで演出なのだ。ここはシンガポールで、だから日本語で客を迎えることこそが「エキゾチック」になるのである。

私は価値というものの本質を見たような気がした。つまり、「ここにはない」ということが価値になるのである。

卑近な例を挙げよう。東京に「かあさん」という居酒屋チェーン店がある。そこの店員は、あらゆるタイプのお母さんで構成されている。と言ってもコスプレ等ではなく実際に母親をやっている人ばかりで、だから誰でも呑みに行けば(ああ、こんな感じの母ちゃんいたなあ)という感慨にふけること請け合いである。

この店の価値は、まさにそこなのである。地方から出てきた人が大半を占める東京にあって、「かあさん」には故郷に戻ったような癒しがある。仮に地方でチェーン展開していたとすれば、早晩つぶれていたであろう。実家住まい、あるいは実家の近辺に住んでいて、いつでも実の母親の顔を見られるような状況にあって、どこの誰とも知らないババアの顔を見に行くような奇特な者などそういるものではない。

つまり、価値とはここにないものを提供することなのである。逆に言えば、今ここにあるものをいくらかき集めてみたところで、何の価値も発生しないのだ。このことは、あるいはデュシャンの「泉」、一般の人から言わせれば例の「便器」にも通じるものがある。本来、美しいものが陳列されていた美術館に、猥雑な便器をしつらえる。そこに〈価値〉が発生したのである。

あるいは、日本人がとかく逆輸入のアーティストに弱いのはそのあたりにあるのかもしれない。正直なところ言葉も習慣も違う外国人などと付き合いたくはないし、いっそ再び鎖国をしてもいいくらいなのだが、しかし外国人の持つ文化や権威にはあずかりたい、そこのところに海外で活躍した人物というのは、いわば〈半外人〉として受容されるのではないだろうか。

そのように考えて、私はなるほどと一人ごちた。十皿ほどを平らげて、私はひょっとしてと思い店員に「あがり」と頼んだが、やはり通じなかったことは言うまでもない。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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