いたちごっことしてのKYと不謹慎(空気を読み、自粛することを強要される時代)

熊本の地震で、一夜にして世間の雰囲気が変わった気がする。東日本大震災の時と同じものを、ひしひしと感じる。

おふざけや冗談は言わずもがな、愉快の片鱗を少しでも見せれば、たちまち不謹慎だと糾弾される。つい先ほども、ある芸能人が笑顔で撮った写真を画像投稿サイトにアップするや否や、まるでリンチのように不謹慎だと叩かれて、あっと言う間にその写真は削除されてしまった。

不謹慎とは、いったいなんなのだろうか。まずはその定義を明確にしないことには、話が始まらない。以下、Wikipediaより引用する。

不謹慎(ふきんしん)とは、慎みや考慮、思慮分別の欠如などを指して言う感情的形容詞(ただし不謹慎という語自体は形容動詞という品詞に属する[1])で、それを見る他者を不快にするような状態であると感じられる事象あるいは集団感情のこと。軽薄、不真面目、無神経などと同義。
「不謹慎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2016年3月14日 (月) 11:16 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

なるほど、『集団感情』とはいかにも日本人が好きそうな感覚である。要するに不謹慎とは、空気を読まず、輪を乱した者に対する制裁と言えるだろう。そこには「みんなに合わせるべきだ」という消極的な事なかれ主義が見て取れる。〈みんな〉とは世間の別名であって、それは容易に右にも左にも変わりうる、曖昧で流動的なものである。つまり、「ここまですればもう安心」というような限界はないのである。

しかしそれでも、不謹慎の逆、謹慎の限界を見定めておくのは無駄ではないだろう。そこで真っ先に思い浮かぶのは、論語にある「三年の喪」である。これは、父母の死に際しては、三年の喪に服さなければならないという孔子の教えである。しかも、延々と泣き続ければ泣き続けるほど良いとされた。

ただ、実社会ではそこまでしてもなお不謹慎とされる場合があり得る。世間の空気を読み、求められている通りに振る舞い、また空気を読んでは、対応する。先回りしているつもりでも、実は互いに監視し、強要し合っているのである。それを繰り返す内に、その読むべき空気は淀みもするし、腐りもする。

先の芸能人の笑顔の画像に対するバッシングに、早くもその兆しが現れている。世間は自粛モードに突入したようだ。東京の街からふたたび灯りが消える日も、そう遠くないのかもしれない。あるいはまた、テレビではACのポポポポーンのCMが際限なく流されるのかもしれない。とにかく我々は今、少なくともおおっぴらには、愉快なる一切は固く慎まなければならないらしい。

それはそうかもしれない。今、熊本は大変なことになっている。確かにその通りだ。しかし、それはいったい何のためなのだろうか。誰のためなのだろうか。何か、ずれている気がする。うめき苦しむ怪我人を目の前にして、ぴんぴんしている自分が申し訳なくなり、わざと同様の怪我をしてみせるような、無意味で偽善的な共感や共有を、私は感じるのである。

誰も熊本のことなど放っておいて、面白おかしくやれと言っているのではない。ただ、3.11にしろ熊本にしろ、不謹慎だとやり玉にあげられたほとんどは、実際のところ何の意味もなく誰のためにもならない言いがかりだったのではないかと思うのだ。

何のために謹慎するのかを、我々は今一度考えるべきだろう。先にあげた「三年の喪」にしても、形式的なものでは決してない。生まれて三年間は親の胸に抱いてもらった子供の恩返しという、れっきとした意味があるのだ。そのような本質を忘れて、いたずらに不謹慎狩りに明け暮れるのだとしたら、それはいっそ二次災害と呼ぶべきものであろう。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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