ぼくときみとは特別な(小金井ライブハウスでのアイドル冨田真由さん刺傷事件について)
かつて他人がいつ何をしているかなどということは、家族でさえほとんど知り得なかった。それ故に、こと有名人においてはプライベートな情報が商品として売れた。
今はSNSで無料である。おそろしく私的な情報――何を食べ、どんな服を着て、いつ寝たか――を、誰でも簡単に得られる。昭和のころのアイドルファンなら大枚はたいても知りたがったろう垂涎ものの情報が、垂れ流しに流れている。
知りたいという欲望は満ち足りることがない。ひとつを知れば、百を千を万を知りたくなる。そのファンの男は、意中のアイドルの情報を飽かず手繰った。イベントに足を運び、SNSに書き込んだ。思いは募り、プレゼントを送った。しかしそれは突き返され、SNSではブロックされた。たまらず会いに行って声をかけると無視された。
彼にとっては、高嶺の花のアイドルに拒絶されたのではない。現実に手の届く異性に打ち砕かれたのである。SNSにある心的距離の近さは、ほとんど恋人のようである。恋人の言動に一喜一憂するのはふつうである。執着するのもふつうである。しかし、往々にしてふつうの人でも恋をすれば心が変になるのである。
その変になること人によりけりであるが、彼は激怒してナイフで刺した。20数回も刺してアイドルは意識不明の重体になり命も危ぶまれる。それが彼に限って病的で狂っていたとすれば世間は安心するだろうが、類縁はごまんといると考えるべきであろう。
思うに、某プロデューサーがアイドルとの握手券なるものを思いついて以来あった懸念ではないか。「手も握らせない」という言い回しがあるように、ぎゅっと手を握れば純な男が狂おしい恋心を募らせたとて無理もないのではないか。しかもSNSでリアルタイムにやり取りができるとなれば、男の脳内で二人は立派な恋人である。いっそ最後まですっきりあけすけにやる水商売のほうがよほど良心的に思えてくる。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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