ほぼエッセイ、ときどき現代の美術とアート。

暴走しているのはメディアか、群衆か(日清カップヌードルCM中止に見るメディアと世論)

  2017/08/22

私は、以下のニュースに接して首を傾げた者である。

矢口さんら出演のカップヌードルCM中止、日清が謝罪文

日清食品は、ビートたけしさんや矢口真里さんらが出演するカップヌードルのテレビCMを、7日夜から中止した。ホームページに「ご不快な思いを感じさせる表現がありましたことを、深くお詫(わ)び申し上げます」とする謝罪文を出した。

 CMは3月30日から放送されている「OBAKA’s UNIVERSITY」シリーズの第1弾。矢口さんや小林幸子さん、新垣隆さん、畑正憲さんが教員役で若者らに講義し、学長役のたけしさんが最後に「いまだ!バカやろう!」と呼びかけるもの。日清食品によると、CM内の表現を問題視する多くの意見が寄せられ判断したという。

 不倫騒動があった矢口さんは、CMの中では心理学部准教授役。「二兎(にと)を追うものは、一兎をも得ず」と力強く訴え、学生に「これ実体験だよね」と笑われる。ゴーストライター問題があった作曲家の新垣さんは、芸術協力学部教授役で二人羽織のように学生の背後について「そうだその調子」と言いながらピアノを弾く。視聴者からは「不倫や虚偽を擁護しているように見える」などの意見があったという。

 謝罪文では「若い世代の方々にエールを贈ることが主旨であり、今後も、そのテーマに沿って、このシリーズをよりよい広告表現で、引き続き展開してまいります」としている。

【朝日新聞デジタル】2016年4月8日14時49分 http://www.asahi.com/articles/ASJ4844W5J48UCVL007.html

制作者側の意図や内容の是非はともかく、このCMが〈挑戦的〉であり〈冒険〉であることは間違いない。だとすれば、他の人のコメントでも見かけたが、ある程度のクレームは想定されていたはずである。にもかかわらず、あっさりと放映中止になった。それが私には非常に奇妙であり、何か不気味なものを感じたのである。

そもそもの話をしよう。CMは誰のためにあるのだろうか。第一に、モノやイメージを売りたい企業のためにある。第二に、それらのメッセージを受け取る消費者のためにある。しかし、それは決して一方通行の押し売りではなく、相互に影響し合う共犯関係にあると言えるだろう。

消費者は欲望する。企業は消費者の欲望をくむ。それが車の両輪のようになって経済が回る。しかし、そこには「売りたい/買いたい」という欲望の交換だけではなく、ブレーキの遊びのような余裕が必要なのである。一般の営業にしても、終始商売の話をしているわけではないだろう。あるいは密売のように素早くモノとカネを交換するというのならともかく、明るい商売は天気や冗談などの無駄話を挟んでこそスムーズに話が進むと同時に、よりよく相手にメッセージが伝わるのである。

CMにしても同じである。かつてのCMには、そのような〈遊び〉が豊富に織り込まれていたのではないだろうか。それはCMという枠を超えてひとつの文化であったような気がする。いま、ちょうど読んでいる【虹をつくる男たち―コマーシャルの30年:向井 敏(文藝春秋)】に、私の考えを裏付けるような一節があったのでご紹介したい。

CM界で最も影響の大きい催しとされるACC(全日本CM協議会)コンクールの選考結果。~中略~ことしのTVCM大賞に選ばれたのがフジカラーの「それなりに」。~中略~樹木希林が写真のプリントをたのみにきて「お見合い写真なものですから特に美しく」と注文するのに、店員の岸本加代子に「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」とあいさつされてしょげかえる~中略~このCMには不美人をからかうというひどく残酷なところがあって、かつてなら世間体をはばかって、これを年間の代表作として推すことは少なからずためらわれたにちがいない。単に評判になっていることと、公式に代表として認知するということとのあいだには、単純には解けない厄介な問題があるのだ。それがなんのためらいもなくストレートに大賞に値するとされたことの背後には、モラルはモラルとして、遊びは遊びとして割り切り、リラックスしてものを見ることに世間がすっかり慣れてしまっているという、大げさにいえば今日の社会通念に対する信頼があったと考えていいだろう。
(同書P177-178)

同書は1983年に刊行されたものであり、テレビこそ普及していたが、インターネットなど影も形もなかった時代である――。我々は、進歩したのだろうか、退歩したのだろうか。少なくとも、先のカップヌードルのCMに関しては、『モラルはモラルとして、遊びは遊びとして割り切』れなくなってしまっていることだけは確かだろう。

もちろん、どんな表現でもが手放しに許されるわけではない。たとえ芸術でもアートでも、そこには良識が必要である。それを踏まえた上で、一介の作家として私見を述べさせていただくと、私はこのCMが放映中止になるのは不当であり、消費者の傲慢さが放映を辞めさせるという〈心の貧しさ〉として露呈したものだと考える。

このCMを、あなたが笑えないなら笑えないで構わないではないか。テレビのリモコンはあなたの手中にあり、自由自在なのだ。不愉快で見たくないなら、チャンネルを変えればいいだけなのだ。なんならテレビを消して寝ればいい。しかし放映自体の中止は、あなたが〈見ない〉という選択や意志表示を自ら放棄しているとも言えるのである。

見たいものだけ見たい。それはそれで結構である。しかし、この世にはCMに限らず見たくないものが溢れている。あなたはそれらにいちいちクレームをつけて回るのだろうか。企業にしても馬鹿ではない。視聴者にそっぽを向かれるのだとしたら、ほうっておいても早晩放映中止になるのである。

見たくないものを見たくないと主張すること。それは文化となり得る。しかし、見たくないから消してくれというのは、ただのエゴイズムであって、むしろ野蛮でさえある。フランスの哲学者ヴォルテールの有名な言葉を借りれば、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――すべての表現はかくあるべきであろう。

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