その神の名は私(バングラデシュの首都ダッカでの人質テロ事件について)

最終更新: 2025/04/07

バングラデシュで30人あまりを人質とするテロ事件が起きた。約半日後に治安部隊が突入し13人が救出されたが、日本人7名を含む20人の死亡が確認された。

犯行グループが「神は偉大なり」と叫んでいたというから、とにかくはまた例の宗教がらみだとわかる。果たしてイスラム国が犯行声明を出したが、しかし実際はバングラデシュ国内のイスラム過激派組織に属する若者だったという。

真相はさておき、問題はまたしても神の名のもとに殺人が行われたということだ。どうして、この手の輩は決まってエゴイズムの主体であるところの〈私〉を勝手に〈神〉とすり替える。

言ってみれば知りもしないヤクザの名を出して恫喝するのと同じで、つまらない卑怯な臆病者のやり口である。しかも今回に至っては、コーランの一節を暗唱させて、つまずいた者を拷問にかけて殺したというから、イスラムの神に限らず世界中の神様もいい迷惑である。

そんな神があるものか。本当は他でもない自分のことをこそ神だと思っているのを、それではさすがにあれだから、客体化して便宜上〈神〉と呼んでいるに過ぎない。つまり一種のナルシシズムである。

ドストエフスキーの「悪霊」に、『神が存在しないならば私が神である』という一節があるが、神の名のもとに蛮行に及ぶ輩はことごとく先の思想を内蔵している。

そんなものは宗教でもなんでもない。ムスリムの皮をかぶった拙劣な自己アピールである。誰しも神なんてものを引き合いに出されれば神聖不可侵かと及び腰にもなろうが、彼らの叫んだ〈神〉を脚色なく元通りに〈私〉と直せばなんでもない。

神とは本来的に自己との関係性の中にこそ存在する。いかなる神もその半分は自分なのである。それは拮抗こそすれ、まさか殺人などという結論が出るものではない。つまり、あったのはエゴイズムの〈私〉ばかりであって、〈神〉は不在だったのである。

私の、私による、私のための殺人が聖戦になろうはずもなく、まして殉教などあり得ない。議論の余地なく単なる大量殺人である。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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