穢れがすすがれる日は遠く(原発から解き放たれた、放射能という科学的あるいは心霊的な災禍)

  2017/08/22

東北は秋田を訪れた。空港からバスに乗って、山間部にある温泉地へと向かう。四月の半ばだが、遠くのぞむ山肌にはまだ多くの雪が残っている。窓を開けると、ひんやりと乾いた空気が流れ込む。やはり東京のそれにくらべて澄んでいる。つられて深く息を吸う。清々しさと同時に、ベクレル、グレイ、シーベルトといった横文字が、すっと冷たく脳裏をかすめる。

東日本大震災から五年――。そう思うと、数珠つなぎに福島第一原子力発電所事故、放射能と想起される。とはいえ、秋田は福島の原発から200キロ以上も離れていて、地形や風向きを別とすれば、直線距離としては東京と大差ない。しかし、賢明な諸氏の批判を覚悟の上で、〈東北地方〉というくくりで、ごく感覚的に言わせてもらえば、私にとって秋田は福島と似たようなものである。

地の果てを思わせるほど見通しのいい田園風景が続く。そこに、ぽつり、ぽつりと、時間が歪んだような出で立ちの農夫や農婦が、のろのろとトラクターを走らせていたり、しゃがみこんでしこしこと農作業に勤しんでいたりする。と言っても、車窓から見えるそれらは豆粒のようでしかないのだが、まさしく牧歌的で、美しくもあった。何かのキャッチコピーではないが、いかにも「大地とともに生きる」という感じであった。その光景は、平素、都会に生きる者であれば、誰しもがほっとして、心安らぐに違いなかった。――震災以前であれば。

バスに揺られること二時間。辺りに大きく小さく雪が残る山の奥の温泉宿に辿り着く。出迎えた宿の人の強い東北なまりは、たとえひどい嘘つきでも、よそ者には素朴で正直な印象を与えるだろうと思った。

夕食の前に、温泉で汗を流す。効験のあらたかさを黙して秘めるように白く濁った露天風呂で、空を見上げる。空気と、水と、大地と。漠としたありがたみを感じる。日本古来の八百万の神と言おうか、大いなる自然に頭が下がる。そして、ハァいい湯だと安堵の息をつくが早いか、にわかに西洋の神とも言える科学、その寵児である〈放射能〉が、戦いを挑もうとするかのように腰を上げる。

夕食は、川魚に、山菜にと、自然の恵みあふれる地物がふんだんに使われていて豪勢だった。どれもおいしかった。ひとつひとつが、丁寧に心をこめて作られていることが感じられた。純朴で忍耐のある東北の人々が、ああしたらこうしたらと一生懸命に作っているのが目に浮かぶようだった。そうして山に川に舌鼓を打ちながら、しかしここでもまた、例の〈放射能〉のことが頭の片隅にあった。それは無いと言ってもいいほど限りなく小さかったが、確かにそれは消しがたく在った。

断っておくが、私は無闇やたらと放射能を忌避しているわけではない。狂ったように嫌悪し怖がる、いわゆる〈放射脳〉など、むしろ人生を損なっていると憐れんでしまうくらいである。そもそも私は世事に疎く、原発についても放射能についても、たいして興味もなければ知識もないのだ。それで私は、放射能についてどう思うのかと問われれば、「わからない」と答える他ないのである。

私にとっての〈放射能〉は、心霊に似ている。幽霊をいるともいないとも、積極的にはとても言えない。あくまでも気分的な、感覚的なものである。暗くさびしい夜にはわけもわからず怯えることもあるが、明るい日中には存在そのものを忘れている。

同様に、私の中での東北はどうにも翳っていて暗く、それで東京よりもはるかに多く〈放射能〉を見つけてしまう。それは目に見えないから、いくらガイガーカウンターを振り回しても決してリアルには見えないものだから、適切な対応も妥当な判断もままならず、不意に出現しもすれば、あっさり消滅しもするのである。

〈放射能〉とは、現代によみがえった〈穢れ〉なのかもしれない。かつて牛馬の屠殺や皮革産業に従事する者が負わされていた、あの根拠のない〈穢れ〉である。何の本だったかは思い出せないが、〈穢れ〉とは何であるかを鮮やかに説き明かした一節がある。コップに尿を入れてから、流して洗う。徹底的に洗う。そしてどんなに高性能な分析器にかけても一切の尿のかすも見つけられないほど完全に洗浄したコップに、水を入れて飲む。それでもなお感じる抵抗感が〈穢れ〉なのだと。

目に見えるものは信じるが、見えないものは信じないのが現代人の考え方であり、世の趨勢でもある。そうして科学は心霊を否定するが、心霊もまた科学を否定するのである。両者は決して折り合わない。否、それぞれの存在を賭せばこそ、絶対に折り合えないのである。

私は、〈放射能〉に対して、どちらの態度が正しいのかはわからない。杞憂で風評被害なのかもしれないし、今現在も広がり続ける恐ろしい害悪なのかもしれない。ただ思うのは、原発がまき散らした放射能というものは、なんと罪深いものだろうかと、思っても思っても思い足りないほどのやり場のない口惜しさだけである。

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