明日みんなで死ねたら

昔、ノストラダムスの予言というのがあった。僕は小学生だった。

1999年の7月に世界が終わるという話で、僕はけっこう純粋な方だったから、みんな死ぬんだと信じていた。いや、それは信じるというには生やさしいくらいで、夜寝たら朝が来るくらいの確かさでそうなると思ってた。

結局、カラスの一匹も空から落ちてくるわけでなし、それらしいことは何もなく、十年、二十年と流れ、現在に至る。

たぶん僕だけじゃないと思うけど、今、このコロナウイルスのパンデミックで右往左往する今こそ、人類滅亡のシナリオとしてふさわしいんじゃないかなと思ってる。でも、あまりにも僕の中にあった人類滅亡のイメージとかけ離れてて、調子が狂う。

こう、ドカーンとか、ゴゴゴゴとか、ガラガラガラとか、人類滅亡って、そういうイメージ。ちょうど、一夜にして滅んだソドムとゴモラみたいな。

でもあれは物語だから、劇的に演出されてるだけ。現実って、本当に退屈で、つまらなくて、だけど恐ろしくシリアス。まあ、現実はいつだってシリアスなんだけど。

コロナウイルス、コロナウイルス、コロナウイルス。何人感染して、何人死んで、さて次は。スーパーの入り口には行列ができていて、店員がゴム手袋を配っている。カートの持ち手をアルコールで消毒している。レジに並ぼうとすると、ストップ、それ以上近づくなと言われる。

そういう日が、一昨日、昨日、今日、そして明日、明後日、明々後日と続く、続くだろう、続いてしまうんだろうという思いが、少しずつ、しかし確実に、人の精神を蝕んでゆく。

カミュの「ペスト」に、まさにこの心境が的確に描写されている。『一向変っていない市(まち)の様子を窓から眺めながら、リウーは、不安と称せられる、未来に対するほのかな胸苦しさが、身のうちにわいて来るのさえほとんど感じるか感じないくらいであった。』

心配ない、大丈夫だと思うこともできる。笑うこともできる。現に、いつもと変わらない感じで笑っている。僕も、あなたも。だけど、その笑いの、たとえば唇の端に、見慣れない小さな唾の泡を認めたりする。どこか必死で、不自然で、無理がある。

人間はドラマが好きだから、一夜にしてなんとかって話をしたがる。だけど本当の、冗談じゃない人類滅亡って、こんな感じなんじゃないかな。サクッ、じゃなくて、ヌルヌル。

あるいは2時間の映画を、24時間に引き伸ばしたらどうなるか、想像してみてよ。クソ退屈で、クソ面白くもないってことくらいすぐわかる。実際、ダグラス・ゴードンっていう現代美術家がヒッチコックの「サイコ」を使ってやってることだから、検索して見てみたらいい。絶望するよ。

そう、絶望ってそんな感じ。絶望もまた、決して劇的ではなく退屈で、じわじわと、ちょっとずつ、人の心を侵食してゆく。

だからもし、明日みんなで死ねたら、いいよね。だけどそんなことは絶対になくって、一人消え、二人消え、四人消え、八人消えって、みんなばらばらにしか死ねない。僕はそれってすごく寂しいことだと思うんだけど、どうだろう。

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新宅 睦仁: 広島→福岡→東京→シンガポール→現在ロサンゼルス在住の現代美術家。美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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