感受性という器官(若さと老いについて)

  2019/03/09

サマセット・モームの【読書案内―世界文学 (岩波文庫)】を読み返していると、何の変哲もない〈感受性〉という単語に引っかかるものがあった。

まずはその箇所を引用するとしよう。なお、訳者のあとがき的な部分なので、まさにモームの文というわけではないことをお断りしておく。

ひと一倍敏感な感受性にめぐまれている。敏感な感受性、それにすぐれた想像力、するどい観察力、作中の人物になりきることのできる能力、最後に自分が見、感じ、想像したものに血と肉とをあたえ得る才能

いささか半端な引用で恐縮だが、ベストセラー作家の要件についてのくだりである。しかし、私の考える〈感受性〉なるものを論じるに当たっては過不足ないだろうということで話を進めたい。

さて、一般に感受性なるものは〈敏感〉または〈鈍感〉という表現で語られることが多い。具体的に言えば、「感じやすくて傷つきやすい」、あるいは「大ざっぱで鈍感」などと言われる。また、そこに「生まれつきの」などという修飾語が付くことも少なくない。

そう考えると、感受性というものは生まれながらに備わっている手足や臓器にも通じるものがあるらしい。生まれつき足が悪いとか、胃が丈夫だとかいうように、生来的に感受性が強い人、あるいは弱い人がいたとしても不思議ではない。

寡聞にして知らないが、実際、私は人間には身体のどこかに感受性という器官があるような気がしている。そうして肉体と同じく成長し、あるいはまた老いてゆく確固たる何かがあるのである。

いま、あなたは感受性が強いだろうか、弱いだろうか。賭けてもいいが、前者の大半は若年であり、後者のほとんどはある一定程度の歳月を重ねた人に違いない。というのも、誰しも皆、若い頃は感受性が強いものなのだ。それは一重に、人生そのものに不慣れだからである。

大人に向かう道すがら、身体と精神の成長とは、しばしばその足並みを崩す。漠然とした不安、緊張、苛立ち、悔しさ、怒り、そういった煮え切らない感情にしばしば苛まれることになる。それでも「箸が転んでもおかしい年頃」というように、若さそれ自体は活き活きとして輝いている。それはちょうど、一見青々としていかにも気持ちのよさそうな背の高い草原のそこここに、毒蛇がとぐろを巻いているようなものである。

安直な比喩と思われるだろうが、しかし、まさにその草原を歩くことを想像してみてほしい。緑の青が瑞々しく美しければ美しいほど、足元からせり上がってくる不安がある。それがいっそ枯れ果てて不気味な草原だとしたら、むしろ身構えて気丈に進めるのではないだろうか。しかし実際は、歩くほどに草の汁に濡れそぼるような生気に満ちていて、当然のように毒蛇にも襲われる。

たとえば、人に言われた他愛のないたった一言に痛く傷つく。私であれば、小学生のころにはホクロが多いことをからかわれ、「ホクロマン」と揶揄されたものだった。今考えれば、さらりと流してどうでもいいことこの上ないが、しかし、あの頃は確かにそれは〈死の苦しみ〉と言っても過言ではなかった。そう考えると、あれは確かに毒蛇に噛みつかれたにも等しかった。

大人になって関心事や悩みの質が変わっただけではないと思う。あれは確かに感受性というべきものであって、いまの私にはもはやその半分もないだろう。ずいぶんと無頓着で、鈍感になった。感受性が、衰えた。

いま、私の前に広がるのは、ゴルフ場を思わせるような芝生である。確かに青々としてはいるが、どこかうそ臭い。見晴らしもよくて障害物もはっきりしているが、それが逆に興ざめである。一歩一歩の先々に予想がついて、わかりきっている。ああしたら、こうなる。実際、確かにそうなる。

単なる厭世感でもあるが、それが大人というものなのだろうとも思う。いまの私の生活を、かつての身体中がむき出しの臓器のような鋭敏に過ぎる感受性では、とても生きてはゆけないだろう。なぜなら、無視あるいは甘受しなければならない不満や疑問があまりにも多すぎるから。

そう考えると、少年少女の言う「大人はみんなわかってくれない」というのは、幼さや了見の狭さより、もっと純粋な魂の叫びであろう。確かに、大人は皆わからず屋である。来週や来月や来年のことばかりを論じて淡々と〈日々をこなす〉ことには長けているが、感受性の強い彼らからすれば、いっそ役立たずの木偶の坊と言って言えなくはない気がする。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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