偶然の始まりと絶対の終わり

  2017/08/22

先週末、広島にある実家に帰った。一人ではない。私の人生の連れ合いになるだろう人と二人でである。

とはいえ浮き足だった雰囲気は全然ない。なぜなら単純な貧しさから片道8000円の高速バスであり、タイムイズマネーもなんのそのの12時間超の苦難の長旅だったからである。

夜の9時ごろに東京を出て、翌朝9時過ぎに広島に着く。トイレも付いていない高速バスで安眠など望むべくもなく、はなから鈍重な疲労感と節々の痛みでもって久しぶりに郷里の土を踏んだのであった。

とりあえず、駅前でお好み焼きを食べて生ビールの小を飲んだ。それから実家に帰ると、妹の第一子が寝かされていた。生後20日足らずで、いかにも乳飲み子という感じである。

妹はすっかり母親らしくなっていてと常套句を使いたいところではあるが、別段の変化は感じられない。むしろあっけらかんとして「便秘の果てにひねり出した固いうんこのよう」だったなどとお産の軽口をたたいて笑っている。その傍らで赤子は言葉もなにもなく、せいぜいが口をむにゃむにゃ動かすか、時おり泣いては乳かおむつかをねだるばかりであった。

それを見ていると、つくづく赤子というものは自分では何もできない、根源的に無力な存在なのだということを思わざるをえない。そのくせ、おむつを外されぼろんとこぼれ出た性器は、小さく頼りげないながらもしっかりと人間の男性のそれで、妙なギャップを感じてしまう。

あるいは泣きじゃくる大きな口をのぞいてみれば、歯茎があり、舌があり、その先に喉元から食道へと繋がっている深くて暗い穴が見て取れる。この穴に適当に雑多な食べ物が放り込まれると、どうして彼は大きくなっていくらしい。

かように牧歌的な時間が流れるその一方、折り悪く前日に父方の祖母が救急車で運ばれ入院することになったという。それで母と妹の旦那、私の連れ合いとの四人で見舞うことになった。

改装したばかりらしいその大病院は、実に清潔で無機的だった。いくつもの病室を通り抜けていると、死んだように動かない病人の手や足がのぞき見えたり、唾液の香りでも漂っていそうな食事のあとが目に入ったりする。それが光るように白い潔癖な空間に置かれているものだから、そのコントラストたるや鋭利な刃物を突きつけられたようにぞっとする。

祖母の病室に着いて中に入ると、果たして祖母はベッドごと居なくなっていた。看護婦をつかまえて尋ねると、昨夜”危険行動”があったらしく処置室に移されているという。案内されて対面した祖母は、ほとんど私の知らない人になっていた。

緑がかった灰色のぼさぼさ頭に、目はうつろで口元が歪んでいる。鼻の下の上唇にはどこでどうしたものか血がにじんでいて痛々しい。その様は、図らずも芥川龍之介の羅生門に出てくる老婆を思い起こさせた。つまり、どこかしら狂人的な感じがあった。

祖母は私の姿を認めると顏が溶解するようにどろっと笑い、「ともちゃん」と私の名を口にした。それから私の隣に立っていた連れ合いを誰かとたずねた。若い時分より難聴であった祖母は今では完全な聾である。私は傍らにあった手のひらほどのホワイトボードに、「彼女」と書いて見せた。理解したらしい祖母は何度かうなづいて、「すばらしい人ですね」と言った。

その変に形式ばった言葉づかいにもまた、改めて祖母はもう私の知る祖母ではないのだと感じた。看護婦から昨夜の危険行動の内容が説明される。ベッドから降りて徘徊していた。その前日にはベッドから落ちて床で仰向けになって脱糞していた――。その横では本人が、ここは私の家じゃない、畳の部屋を探し回っていたんだというようなことをうわ言のようにしゃべっている。

母はその様子を見て笑い、元気そうだ、しっかりしている、大丈夫そうだとかなんとか言っていたが、私からすればいったいどこをどう見れば”大丈夫”なのかと思った。正直、私には祖母が怖かった。怖いが言い過ぎだとすれば、少なくとも近寄りがたかった。ちょうど電車内などで、いわゆる”頭のおかしい人”と乗り合わせた時に感じてしまうような、理性では抑えがたい本能的な忌避感とでも言うべきものがあった。

それについさっきまで、つやつやの”おろしたて”の肉体を持った赤子を見ていたせいで、頭の中で自然と対比されてしまう。両者ともおむつで人の手がかかり、言葉も自在ではないことを考えると、いわゆる老人になると子供に返っていくのだというようなことを思わなくもない。

しかし、たとえそれが人間の真理の一面を表しているとしても、私にはどうにもそれが詭弁にも近い言葉遊びの類でしかなく、両者はあくまでも両極に位置するのだとしか思えなかった。やはり、一方は光り輝く始まりであり、一方は闇に消えゆく終わりなのだ。

そう考えると、「産んでくれと頼んだ覚えはない」というような不遜な物言いも、あるいはごく当然の真摯な魂の叫びのようにも響いてくる。なぜなら、すべての人間は偶然に産み落とされたにも関わらず、絶対に死ななければならないからだ。勝手に生んだくせに絶対に死ねとは、いったいどんな横暴だろう。なんという不条理だろう。

死にかけの祖母は今日も元気だろうか。生まれたての甥は今日も元気だろうか――。そう思いを馳せるとき、私の頭の中で光速よりももっと速いスピードで両極にすっ飛んでゆく二つの光がある。それを、ただただ恐ろしく見ている、見ている他はなにもない。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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